私は歴史が大好きでテレビでも時代劇をよく観ていました。最近時代劇がNHK以外全く無くなってしまったのが大変残念でなりません。
ところで時代劇の定番パターンで「悪代官と悪徳商人」が出て来ますよね。このうちの悪徳商人で有名なのが「越後屋」という商人。
「越後屋~、お主も悪よのぉ~」
というセリフは余りにも有名です。しかし越後屋は実在していて現代にも続いている三越の前身だと以前に知って大変驚きました!
そこで今回は三越の歴史について詳しくリサーチしてみました。
すると江戸時代に三越が始めた、当時としては型破りだった商法が見えて来ました。越後屋は決して悪徳商人ではなく大変なアイデアマンだったのです!
では、先ずは三越の歴史をザックリと見てみましょう。
この記事でわかること
ザ・三越ヒストリー!
三越について詳しく見る前に三越の歴史の全体像を掴んでおきましょう。
1100年・・・藤原馬之助信生が三井姓を名乗る
1568年・・・三井高安が越後守に任ぜられる
西暦年不明・・・三井高俊が商人となり酒屋を開業。「越後殿の酒屋」よ呼ばれる
1675年・・・三井高利が屋号を「三井越後屋」と定める
1904年・・・社名を「合名会社 三井呉服店」から「株式会社 三越呉服店」に変更
以上を踏まえてどうやって今の三越へと発展していったのか、順番に詳しく見て行きましょう。
三越の歴史の始まりは平安時代に有り!?
三越のルーツが三井越後屋という呉服商であることは御存知の方も多いと思います。
ではそもそも三井姓を名乗る様になったのはいつ頃からなのでしょうか?最初にここから見て行きましょう。
藤原道長の末裔!?
三井家のルーツは平安時代の関白太政大臣であった藤原道長だそうです。
そんなにおえらい方だったんですねぇw
そして道長の子孫で藤原右馬之助信生という人物が1100年頃に京都から近江に移り住み、琵琶湖周辺の領地を視察中、三つの井戸を発見し、そこに財宝が有った為にこれを祝して三井姓にしたのだそうです。
と言う事は井戸が二つだったら二井(ふたつい)だったんでしょうかねぇ?^^
三井姓のルーツは分かりました。では越後屋のルーツは何なのでしょう?次にそこを見て行きますネ。
越後守から越後屋へ
三井姓を名乗り武士となった三井家ですが三井高安の代には官位を越後守と言いました。
どうやらこの「越後」が後々関係して来そうですよね。ですから良く覚えておいて下さい。
高安の子の高俊は武士を捨て町人になりました。
そして松阪で質屋や酒・味噌の商売を始め、商人となりました。この頃から三井家は高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれていた様です。
さあ、そしてやっと登場します!三越の生みの親、高俊の子である三井高利が屋号を「三井越後屋」と定めこれが後に三越となったんですね!
ここまでをまとめると・・・、
- 三井⇒三つの井戸の元に財宝が有ったのが由来
- 越後屋⇒越後守という官位が由来
以上の事が分かりました。
ではここからは三越の祖とされる三井高利の歴史的背景と三越がどのようにして現代に繋がる大企業になっていったのか。その驚くべき新商法について紐解いて行きましょう。
三井高利の歴史的背景と三越が始めた型破りな新商法とは?
三井高利っていつの人?
先ず始めに三越の祖と言われる三井高利の歴史的背景について見てみましょう。
1673年(延宝1)に江戸日本橋本町一丁目(現在の東京都中央区)に三井越後屋を開業。
1691年(元禄4)には幕府の為替御用(かわせごよう)を引き受ける。
1694年(元禄7)に忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件の8年前に73歳で他界しました。
以上の様な時代背景を持つ三井高利ですが、彼は大変なアイデアマンであり、母親譲りの驚くべき商才の持ち主だった様です。
ここからは当時としては大変型破りと言われた越後屋商法について解説します。
店先(たなさき)売り
当時の通常の販売方法は前もって得意先に注文を聞いてから品物を持参する「見世物商い」と直接商品を得意先に持参して売る「屋敷売り」が一般的でした。
三越はこれを廃止し、商品の値段を下げ、正札(しょうふだ)と呼ばれる定価を付けて店先(店頭)で販売する方法(店頭定価販売)に切り替えました。
現金掛値無し
当時の支払は盆と暮の「二季節払い」か12月のみの「極月払い」の掛売が普通でした。
その為、貸し倒れによる損害や掛売の金利がかさむため、商品の値段が高くなり、資金の回転が悪かったんですね。
三越はこれも廃止します。そして店頭での現金売りにすることで得られる現金収入は資金の回転を早め莫大な収益を上げた様です。
イージーオーダー
これは当時としては大変画期的なものでした。
切り売りは当時の呉服商業者間では禁止されていて一反単位の取引が常識でした。そのため、商品その物を客に渡してそれで終わりでした。
しかし三越ではそれを廃止。客の需要に応じて切り売りし、江戸庶民の大きな需要を掘り起こしたのです。
更に当時は反物を買うと採寸や仕立ては別の所で行っていたため時間も金も余分にかかっていました。
ところが三越では客の求めに応じてそれをその場で直ぐに使用可能な着物に仕立て直す為の全工程の職人も抱えていたので大繁盛しました。
貸し傘
越後屋では、店の営業中に雨が降り出すと、土間に傘を積み上げて、顧客だけではなく通行人にまで貸していました。しかも無料です。
しかしそこには高利の緻密な計算が有りました。傘を開くと、「越後屋」と書いて有り、皿にそこには番号が書いて有ったのです。
夕立ちやにわか雨が降ると、越後屋のお客だけではなく、通行人までもがその越後屋と書かれた傘をさすのですから、街には越後屋の宣伝マンが溢れることになる訳ですね。
因みにそれまでは傘のことを唐傘と言っていましたが越後屋の、番号が書かれた傘が有名になりいつしか番傘と呼ばれる様になっていきました。
この貸し傘、現在の広告宣伝の先駆けと言えると思いますが当時は決して安くはなかった傘を無料で貸し出すなんてすごい所に目を付けたものですよね!因みに貸し出した傘の殆どが返って来なかった様です。
三井銀行につながる為替御用とは
現在の三井住友銀行の前身となる三井銀行の発祥も越後屋に有りました。
当初江戸幕府は西日本の直轄地で取れる年貢米や特産物を大阪で販売して現金に換えそれを江戸へ現金輸送していました。
しかし、それでは人件費がかかる上に道中で盗賊に襲われる等危険で不便なものでした。
そこでこれに代わる手法として三井高利が為替の仕組を幕府に提案し、1691年に大阪御金蔵銀為替御用(公金為替)を命じられました。
この為替御用は明治維新まで続き、維新後、この金融業が三井銀行(三井住友銀行の前身)の母体となりました。
高利以後の三越発展の歴史は?
ではここで高利没後の三越発展の歴史を時系列で見ておきましょう。
1928年(昭和3年)に「三越呉服店」を「三越」に改称
1941年(昭和16年)に「三井不動産」を設立
1990年(平成2年)に三井銀行と太陽神戸銀行が合併し「太陽神戸三井銀行」が発足
1992年(平成4年)太陽神戸三井銀行を「さくら銀行」に改称
2001年(平成13年)にさくら銀行と住友銀行が合併し「三井住友銀行」が発足
2008年(平成20年)に三越と伊勢丹が経営統合し「三越伊勢丹ホールディングス」が発足
高利没後も三越は日本発展の為に重要な役割を果たしてくれているんですね!
まだまだ有る!江戸時代に始まった大企業たち
今回の三越の様に江戸時代に始まった有名な企業って他にも無いか調べてみました。
ここではその中からいくつか御紹介しましょう。
- 三菱グループ
坂本龍馬とも旧知の仲だった岩崎弥太郎が創業者。当時の物流業界の中心だった海運業で成功。日本で初めてボーナスを支給した会社でもある。
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松坂屋
織田信長の小姓の子、伊藤蘭丸祐道が創設。名古屋で創業した呉服小間物商である「いとう呉服店」が起源。 -
竹中工務店
織田信長の元家臣、竹中藤兵衛正高が1610年名古屋で創業。「工務店」という言葉を初めて社名に使用。東京ドームを手掛ける。
まとめ
以上、今回は三越について調べてみました。結果を下記にまとめてみます。
- 三越のルーツは平安時代の藤原氏
- 三井は三つの井戸に由来
- 越後屋の屋号は三井家先祖、三井高安の官位「越後守」に由来
- 店頭販売、定価販売、現金販売、切り売り、イージーオーダー、販促等の先駆け
- 三井銀行の前身
以上のことが分かりました。
三井越後屋は当時は相当型破りな事をしたらしく同業他社からはかなり妬まれていたそうです。
それが「越後屋~、お主も悪よのぉ~」というイメージになったのでしょうか?w
三井高利のアイデア商売、今では当たり前になっている物や無くてはならない物ばかりですよね。
先を見通す目には感服しました。
今回は以上となります。最後まで御覧頂き有難う御座いました。
★参考サイト★
三井広報委員会