今回は半蔵門の名の由来についてリサーチしてみました。
江戸城周辺には沢山の門が設けられていて今でも地名等に残されていますが半蔵門は当時も今も大変重要な門なんですよね。
そんな半蔵門の歴史について早速見て行きましょう。
この記事でわかること
半蔵門の地名の由来とは
半蔵門という地名は何が由来なのでしょうか?先ずは先に答えを言いますね。
つまり「半蔵」は元々は「半象」だった、という説が有るのです。
しかし、よくよく調べてみるとこれはどうやら当時の江戸っ子の駄洒落だったようです。(笑)何だか駄洒落と知って妙に安心したのは私だけかな?^^;
さて、現在最も信憑性が高いとされている説は次の通りです。
門の内側或いは外側に服部半蔵の屋敷が有り更に半蔵の部下の組屋敷が門の外に有り門の警備をしていた、というのが有力な説と言われています。
なお、現在は皇居の一部となっていますが歌川広重が描いた風景画「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」を観ると、当時の雰囲気を垣間見ることが出来ます。
麹町御門という別名も有った
江戸城建設当初は麹町御門と呼ばれていて、延宝江戸図にも麹町御門と記されています。
半蔵門の役割
半蔵門は家康公が江戸城開府の際にここから入城したという大変歴史的な門です。
江戸幕府開幕後は将軍に急な事態が発生し江戸城を脱出しなければならない時に甲州街道から甲府へ脱出するための門となりました。
半蔵門の由来に関しては以上となりますが事項では門の名前になっている服部半蔵について見ておきましょう。
服部半蔵が家康公を救った?
では伊賀越えとはいったいどのような出来事だったのでしょうか?
天正10年(1582)に勃発した本能寺の変の際、家康公は、堺から早々に本国三河へ帰ろうとしました。
その際、伊賀を越えて伊勢の海から船で三河に渡る最短ルートを選びました。
その途中、鈴鹿の山中を越えねばなりませんが、一行は落武者と同じで、地侍に襲われる危険性が有りました。
この時に伊賀出身の服部半蔵が、甲賀者や伊賀者を指揮して家康公を護衛し無事に三河に戻る事が出来たのです。
この出来事を伊賀超えと言います。
現在の半蔵門の役割は?
現在では半蔵門は天皇にまつわる公式行事の時にしか使われることの無い門となっているようです。現代においても半蔵の功績が称えられているようです。
半蔵が居なかったら現在の東京は違ったものになっていたかも知れませんからその功績は計り知れませんよね。
まだまだあります!徳川家発祥の地名たち
- 御茶ノ水(東京都千代田区)
徳川家でお茶をたてるための水が献上された地
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御茶ノ水の由来を知ろう! 地名に隠された歴史とは? - 丸の内(東京都千代田区丸の内)
丸とは城の事で丸の内とは城の堀で囲まれた内側、という意味。
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丸の内の地名の由来は?全国の丸の内の肝はココに有った! - 両国(東京都墨田区)
武蔵国と下総国の両国にまたがっていたことが由来。
両国の語源はココから御覧頂けます↓
両国の由来は? 地名は単純でも歴史は深かった! - 半蔵門は服部半蔵に由来する
- 家康公伊賀越えでの半蔵の功績により名が付けられた
- 現在では天皇家の公式行事の時しか使われていない
- 東京には徳川家由来の地名が多く残っている
まとめ
今回は半蔵門についてリサーチしてみました。
以上の事が分かりました。
こうしてみると半蔵ってすごいですね。「忍者ハットリ君」のイメージしか無かったので大変勉強になりました。
以上、最後まで御覧頂き有難う御座いました。