私は大の相撲ファンなのですがテレビで時代劇を見ていても相撲のシーンがたまに出てきます。
そんな時に、「そう言えば相撲の歴史って考えた事も無かったなぁ」と思うんです。
そこで歴史リサーチ好きの私は相撲の歴史について知りたくなり、今回調べてみることにしました。
相撲のそもそもの始まりや歴史的な流れ、相撲用語から生まれた言葉や伝統について等様々な事がしっかりと分かりましたので解説していきますね!
それでは先ずは相撲の始まりについて見ていきましょう。
この記事でわかること
相撲の始まりは?
神話としての始まり
相撲の最も古い記録は712年に書かれた『古事記』に登場する、神様同士の力比べです。
天津神から出雲に派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と出雲の建御名方神(タケミナカタ)が力比べの勝負をしたことが記されていて、これが相撲の始まりだとされています。
因みにこの時に勝ったタケミカヅチは相撲の元祖とされているそうです。
まさか神様が相撲、と言いますか力比べをして国を奪い合っていたなんてビックリ仰天しました。丸でドラゴンボールの世界じゃないですか!^^
格闘技としての始まり
人間による相撲の始まりは・・・、
でした。
これは720年に書かれた日本書紀に記されているそうですが、この2人が、第11第天皇の垂仁(すいにん)天皇の前で天覧試合をしたことが相撲の始まりとされています。
この時の力比べは殴る蹴る何でも有りの正に喧嘩状態!結局野見宿禰が当麻蹶速の腰の骨を踏み折り絶命させてしまいます。これが展覧試合とは凄まじい試合ですよね!
1000年以上続く相撲の始まりは神様同士の力比べだったり、人間同士の最初の相撲は命懸けの展覧試合だったりと全く知らない事ばかりでした。
今後、大好きな相撲中継を見る目が変わってきますネ^^;
では次にもっと現実的な歴史から相撲の歴史を見てみましょうか。
奈良時代以降の相撲の歴史的流れは?
奈良時代以降、相撲は以下の様な流れで歴史を繫いできました。
ここからは時代を二つに分けて詳しく見ていきたいと思います。
奈良時代から戦国時代の相撲の歴史
相撲節会
奈良時代から平安時代にかけて、七夕の宮廷行事の余興の一つとして相撲節会と呼ばれる相撲大会が毎年7月頃に行われるようになりました。
この時はまだ土俵は無く相手を倒すか地面に体の一部を着かせた方が勝ちだった様です。
記録としては734年のものが最初。
その後、都の政情不安により1174年には無くなってしまったんですよね。残念・・・。
神事相撲
一方で、神社では五穀豊穣を祈り、神々に感謝する神事として相撲を取る様になっていきました。これを神事相撲と言うんですって。
武家相撲
相撲節会で行われていた相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制度が成立した鎌倉時代に武士の間で広まって行きました。これを武家相撲と言います。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は特に相撲が好きだった様です。時の権力者に保護された文化はやはりその後も生き残っていきますよね。
土地相撲
続いて室町幕府を開いた足利尊氏は、相撲にはあまり興味無かった様です。
しかし、戦国大名は力士の育成に大変熱心でした。中でも有名なのは、出ました!織田信長ですよ^^
信長の最も大きな功績は「土俵」を考案したことですね。
戦国時代以前の相撲では、「人方屋」と呼ばれる人の輪の中で相撲が取らていました。これを信長は勝敗をはっきりさせる為に土俵にしたって訳です。
また、応仁の乱以降地方に逃れた貴族によって京都の相撲文化が地方にも伝わり、民衆の間で相撲が一般化していきます。
そして相撲を取る事を職業とする者も現れました。これを土地相撲と言うそうですが知りませんでした。
江戸時代から現代に至る相撲の歴史
勧進相撲
江戸時代に入ると土地相撲が興行化していき一般大衆に広がっていった様ですね。
興行主はこれを寺社の建築や修繕などの募金集めを目的とした興行であるとして勧進相撲と言う様になりました。
大相撲
明治維新により相撲は廃業の危機に見舞われたものの、明治天皇の天覧相撲により何とか生き残れたんです。
そして大正14年(1925年)から幕内優勝者に天皇賜杯が授与されることになり、また同年東京相撲と大阪相撲が合併して日本相撲協会が誕生したことにより、勧進相撲が一本化されて大相撲となりました。
大相撲が大阪相撲と東京相撲に分かれていた事は最近の貴乃花親方の騒動で知りました。
これも貴乃花親方の隠れた功績と言えるのではないでしょうか?^^
大相撲が語源の言葉
ここまでおよそ1300年も有る相撲の歴史を見てきましたが今回のリサーチで相撲から生まれた言葉って意外と多いって事が分かったんですよ!
そこでここからはそのいくつかを2パターンプラスαに分けてサクサクッと御紹介しますよ^^v
相撲の取り組みから生まれた言葉たち
- 勇み足
相手を土俵際まで追い詰めながらも勢い余って相手より先に土俵の外に足が出てしまうこと。転じて、熱心過ぎて言動が度を超して失敗すること。 - 変わり身
立ち合いで、前へ出ると見せかけて素早く横に移ること。転じて事情を素早く判断し、考え方や態度を変えること。 - 腰くだけ
相手が技を出していないのに、体勢を崩して倒れてしまうこと。転じて前触れもなく物事が駄目になること。
番付けから生まれた言葉たち
- 番狂わせ
番付の下位の力士が上位の力士に勝つこと。転じて予期せぬ事が起きて物事が思い通りに進まなくなること。 - 序の口
番付の一番下の位。転じて物事の始まりのこと。
八百屋が語源の言葉
- 八百長
明治初期に実在した”八百屋の長兵衛”、通称八百長さんに由来。この八百長さんは相撲の年寄をしていた伊勢海五太夫の囲碁仲間でした。八百長さんの方が実力は上だったのですが商売を上手く運ぶためにわざと勝ったり負けたりしていました。
ここから転じて真剣勝負せずにわざと負けることを「八百長」と呼ぶ様になった。
長兵衛さんも上手く商売しようとしていただけなのにこんな形で名前が残るなんてさぞかしショックでしょうね。
尚、囲碁の用語に由来する言葉も結構有りますので気になる方はコチラ↓の記事を御覧下さい。
囲碁が由来の言葉たち!まさかアノ言葉もそうだった!?
その他にもまだまだ相撲に由来する沢山の言葉が有りますので詳しく知りたい方はコチラ↓の記事を御覧下さい
相撲が由来の言葉まとめ!アノ言葉も相撲が由来だった!
相撲の土俵は女人禁制?
ところで相撲界では「女人禁制」が伝統とされていますが、これは果たして本当なのでしょうか?最後にこのことについてもリサーチしてみましたのでザックリと解説してみましょう。
伝統と言うからには恐らく千年とかの歴史的伝統?と思いました。
しかしリサーチしてみると意外にも女人禁制になったのは明治以降だとか!
しかも先に御紹介した「日本書紀」の第21第雄略天皇期の章に宮中の女官に相撲を取らせた事が書かれています。
また、江戸時代には興行としての女性相撲が有ったそうなんですよ!
なのに何故明治時代から急に相撲が女人禁制になったのかと言うと明治時代に「裸体禁止令」が出されたのがキッカケなんだそうです!
それまでの日本は街中を裸で歩く事は普通だった様で、浮世絵にも描かれています。
しかし明治時代になり近代化を急ぐ日本政府は西欧列強には半裸で街を歩く習慣が無い事を知り慌てて裸を禁止します。
当然相撲も禁止!
ここで慌てた相撲界が持ち出したのが娯楽や興行としての相撲を神事として格上げすることだったという訳です。
この時初めて女人禁制とされたそうなんですね。
今後、女性総理が誕生した時、果たして優勝力士に内閣総理大臣杯を授与する役目は誰が果たすのでしょうネ?
まとめ
相撲って随分昔にその原型が有ったんですね。
では最後に今回分かった事をまとめてみましょう。
- 最初の相撲は神様の力比べだった。
- 人間同士の最初の相撲はのみのすくねVSたいまのけはやの展覧相撲。
- 行事としての相撲は「相撲節会」⇒「神事相撲」⇒「武家相撲」⇒「土地相撲」⇒「勧進相撲」⇒「大相撲」と発展してきた。
- 相撲用語が由来の言葉が意外と沢山有った。
- 女人禁制は明治以降→伝統と言えるのか疑問。
次の大相撲が楽しみになってきました。まだ観戦に行った事が無いのでいつか
生で観戦したいですね。
今回は以上となります。最後まで御覧頂き有難う御座いました。
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★参考サイト★
- 日本相撲協会ホームページ
- 出雲観光ガイド
- weblio辞書
土俵の大きさはどのようにして決められたのですか?
コメントありがとうございます。
「どのように」に対する答えになるかどうか微妙ですが、本文にも書かせてもらったように、織田信長が「勝敗をはっきりさせる為に(人方屋を)土俵にした」という資料以外見付けられませんでした・・・。
ここからは私の推測ですが、当時の人方屋のだいたいの大きさを信長がそのまま土俵の大きさと決めたのではないでしょうか。
別の資料では、江戸時代から1931年まで使われた土俵の大きさは、直径3メートル94センチで、1931年の展覧相撲より現在の4メートル55センチとなったようですが、その理由まではわかりませんでした。
以上、参考になれば幸いです。