こんにちは、Isajiです。
富士山が世界文化遺産に登録されてから、「富士山に一度は登ってみたいなぁ」っていう以前からの思いをますます強くしています。
そうした中、そもそも富士山の標高っていつ頃から測定されてきたのかぁって疑問に思ったんですよね。
そこで今回は、富士山の標高を測定した江戸時代の人たちについて調べてみました。
また合わせて、富士山の標高はどこを0mとし、どこを頂上として計測しているのかやその他のちょっとした情報についても調べてみましたので、最後までじっくりとご覧ください。
では最初に、富士山の標高測定に挑んだ人たちについて一緒にみていきましょう。
この記事でわかること
江戸時代に富士山の標高を測定した人たちって?
まさか江戸時代に富士山の標高を測定できたなんて、そのこと自体にとっても驚いたのですが、調べられただけでもなんと6人もいらっしゃったんですよ!
その6人と測定結果は以下の通りです。
測定年 | 測定者 | 標高 |
---|---|---|
1727年 | 福田履軒 | 3,895m |
1803年 | 伊能忠敬 | およそ3,900m |
1828年 | シーボルト、二宮敬作 | 3,794.5m |
1834年 | 内田五観 | 3,476m |
1860年 | オールコック | 4,322m |
一人一人簡単に触れておきましょう。
福田覆軒
1843年に書かれた「世事百談(山崎美成著)」 によると、福田覆軒は駿河の吉原宿から富士山の高さを三角法で測定しました。
これが日本で最初の富士山の標高測定の記録とされています。
伊能忠敬
江戸時代に、日本で初めて正確な日本地図を実測により作成したアノ伊能忠敬が、富士山の標高測定もしていたんでsね。
忠敬は、量程車(車輪の回転数で距離を測定する道具)や縄や鎖、歩測、象限儀(恒星の高度により方位や角度を計測する道具)、方位盤などさまざまな道具を使用して富士山の標高を計測しました。
複数の場所で計測していて、計測場所により数字が違うため、上記一覧表では「およそ」としています。
シーボルト、二宮敬作
オランダ人医師だったシーボルトは、気圧高度計を使って富士山の標高を計測しています。
弟子の二宮敬作が実際に富士山の頂上に登って計測しました。現在確定している富士山の標高は3,776mですから誤差はわずかに18.5m。
これってすごくないですか!今のような精密機械がない時代にここまで正確に計測出来ていたなんて信じられませんね。
しかし、仕組は意外と単純でした。下記のような計測器を使って計測したんです。
高度が100m上がると気圧が約12ヘクトパスカル下がるという原理を応用したもの。
大気の存在は17世紀にすでに確認されていて、それを応用した道具を使ったんですね。ですから、標高の測定よりもむしろ実際に登った二宮敬作が大変だったっんじゃないかと思います。
内田五観(うちだいつみ)
内田五観は象限儀と占気筒(液柱式気圧計)で計測しました。実際の標高との差が300mというのはちょっと開き過ぎって感じですね。
オールコック
オールコックはロビンソンとともに実際に富士山に登頂し、水の沸点で標高を計測しました。
計測値が4,322mって、実際と546mも差がありますね。科学的計測にしてはちょっと誤差が大きいですね。逆に、シーボルトの高度気圧計がいかに正確だったかが分かりますね。
ちなみに、水の沸点は標高が高くなるほど低くなり、富士山の頂上では88.0度で沸騰してしまうそうです。
以上、ここまでが江戸時代に富士山の標高の測定に挑んだ人たちに関する情報でした。当時は測定方法や測定地点はバラバラだったみたいですね。
ところで、現在では富士山の標高の測定には一定の地点が基準となっていますが、具体的にはどこからどこまでを測定しているのかって知ってますか?
次にお届けするのはそんな話題です。
富士山の標高ってどこからどこまで?
では、先ずはどこから計測するのかを見てみましょう。
どこを0メートルとして測定するの?
富士山の標高0m地点は、
- 東京湾の平均海面
が基準なんですよ。
富士山のふもとか、駿河湾の海面かなぁって思っていたのですが、そうじゃないんですねぇ。
正確には「東京湾中等海面」と呼ばれます。これは東京湾に設置されている検潮所で、1873年~79年までの海面の高さを計測して、その平均をとったものなんです。
しかし、実際には海面の高さは季節や気候によって違うので、いろいろな場所の標高を測定するには実用的じゃないですよね。
そこで、東京湾中等海面から起算した基準点として、国会議事堂前の憲政記念館の庭先に1891年に「水準原点」が設けられ、この高度を24.4140mと決めています。
富士山だけではなく、日本のすべての標高はこの水準原点を基準に計測されています。北海道でも鹿児島でもです。
測量って意外と複雑なんですね。っていうよりも逆に、全国の基準が東京っていう方が分かりやすいんですかねぇ^^
では次に、富士山の頂上の基準点について確認しておきたいと思います。
どこを頂上として測定するの?
「頂上」って言っても実際には火口はすり鉢状になっていて、「点」にはなっていませんよねぇ。ではいったいどこを頂上としているのでしょうか?
それは、
- 剣ケ峰の富士山測候所近くにある二等三角点・・・3,775.63m
なんですって。しかし、実際に最も高い場所があるんですよ。それはこの二等三角点の北側にある岩。こちらの方がやや高く、3,776.24mなんですね。
しかし、どちらも四捨五入すると3,776mになります。で、公式な標高は3,776mとされているんですね。
普段、何気無く富士山の高さは「3,776m」って言ってましたが実際には1cm単位で測定されていたなんて知らなかったので、なんか感激してしまいました。すごい正確に測定されているんですね。
ところで、過去に富士山の標高が変化したことがあるってご存知でしょうか?
次はそんなお話です。
富士山の標高が変化した?
過去に富士山の標高が変化したことがあります。それは、
- 1923年の関東大震災
の時です。
「なるほど、あり得るかも!」って思いましたね。
1885年の明治政府の公式記録では3,778mでした。それが、1926年の再計測では3,776mになっていたんです。
120年も前の数字だから正確じゃなかったんじゃないか、って話もありますが、真相は分からないですよね。
また、2011年の東日本大震災による地殻変動で、先ほど書きました「水準原点」が沈下した可能性があるのだそうです。
これにより富士山の高さも微妙に変わってくるかも知れません。
標高が数センチ変わるとしても生活には支障ないじゃん、って思ったのですがどうやら震災復興には正確な「水準原点」は欠かせないみたいです。
建物や道路などを復興する際の基準が定まらないと、道路が微妙にずれたり建物の高さが傾いたりとかしちゃうのかも知れないですね。
普段は気になりませんが標高の基準点って、富士山の高さだけじゃなくて生活にも欠かせない重要なものなんですね。
では最後に今回の記事をまとめてみましょう。
まとめ
江戸時代に富士山の標高測定に挑戦した人たちってすごいですよね。
その理由は上司の命令や母国からの指示だったのでしょうが、今のような精密機械がない時代によく計測したものだと思います。
物理や自然科学、測量技術などいろんな知識をまずは頭に入れないといけませんから、大変な作業だったんでしょうね。
- 江戸時代には福田履軒、伊能忠敬、シーボルト、二宮敬作、内田五観、オールコックらが富士山の標高測定に挑んだ。
- 富士山の標高は「東京湾の平均海面」から「剣ケ峰の富士山測候所近くにある二等三角点」までを測定している。
- 富士山の標高は大地震の地殻変動により変化することがある、
富士山にいつかは登りたいってずっと思っているのですが、そのチャンスがきたら、江戸時代に富士山の標高測定に挑んだ人たちの苦労を思いながら登りたいと思います。
今回は以上となります。最後までご覧いただき、ありがとうございました。